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禅語

日出乾坤耀 雲收山岳青 
 ひいでてけんこんかがやく くもおさまりてさんがくあおし

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日出乾坤輝 

雲収山嶽青

ひいでてけんこんかがやく
くもおさまりてさんがくあおし

中国北宋時代の僧 慧覚(えかく)の『古尊宿語録』にある言葉で、

「日出でて乾坤輝き、雲収まりて山岳青し」

ひいでてけんこんかがやく くもおさまりてさんがくあおし

と読みます。

「乾」は天・陽などを表し、「坤」は地・陰などを表します。

「乾坤」で「天地」「陰陽」という意味があります。

​太陽が出て、天地が輝き、雲が消えて山々が青く見える、

と読むことも出来ますが、この言葉は、

「仏が智慧の光をもって、無明の闇を照らし、真理をあらわにすること」を

情景をもって比喩的に表現したものと言われています。

(以下、臨黄ネット参照)

水平線上の初日の出は、旧年の闇を一掃して、

大光明は天地にかがやく。新しい世界が生まれた。

地上のたたずまいはそのままに、

無限の光りを浴びて祝福の浄土が出現する。

これは大悟の風光である。

心の太陽は、いかなる闇夜、いかなる暗雲の中にも必ず存在する。

人は無知のゆえに、時に迷いと絶望の深底に沈むが、

心の太陽の実在を信ずる者は、

やがて豁然と夜明けを見ることができるだろう。

アンカー 5
禅語13

春水満四澤 

しゅんすいしたくにみつ 

昨日は怖かったあの人も

春になって、雪解け水が沢を満たしていく。

山を閉ざしていた張本人は雪なのに、その雪が、冬を終えたとたんに今度は木々に

​大地に潤いをもたらし、歌の聞こえる春の仕掛人となる。

自然はこんなにあっさり、大胆に変化します。

冬は雪の姿、春は水になって、季節ごとの姿に執着なく

地上に恵みをもたらします。

まるで、厳格な当主からやさしい隠居となり、孫と遊ぶ好々爺のようです。

当主は一家を養う責任を一身に引き受け、収入の途切れることを許さず、

​世に敵の多いのを承知して子供たちに生業を教える。

厳しくなるのがあたりまえです。

当主の愛情は雪のよう。

そうして子供が修行を終えた頃、当主は世代交代の時期を悟ります。

今度は隠居となった身で、なりたての未熟な当主を支えるべく微笑みをたたえて、

​孫たちと戯れて雪解け水のように一家を優しく潤していくのです。

『続ほっとする禅語』(二玄社)より

アンカー 4

月在青天 水在瓶 
つきはせいてんにあって みずはへいにあり

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月は青天に皎々と輝き、水は瓶の中に静かに収まっている。

当たり前のことです。柳は緑、花は紅、犬はワンワン、

猫はニャンニャン、カラスはカァーカァー。

見るがまま、聞くがまま、

あるがままの消息以外に法があるはずがないというわけです。

月は青天に、水は瓶の中にと、あるべきところにきちんとある、

人間として当たり前のことを当たり前にやる、あるべきようにやっていく、

これを措いて別に道があるわけではないというのです。

私たちももう一度、あるべき姿をじっくり考えてみようではありませんか。

​(細川景一著『白馬蘆花に入る』参照)

アンカー 3

泣露千般草 

つゆになくせんぱんのくさ

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『泣露千般草、吟風一様松』

対句で禅林句集などには掲載されていますが、

個々の句で掲載された書物も見受けられます。

山の千草が泣いているかのように、露に打ちふし、

大小様々な松が風に吹かれて一様のメロディを奏でている。

差別と平等とがこのように相即している。

これが自然と人生の真相。

病土嚢の面だけ見て差別の面を忘れるのも、

差別の面だけを強調して平等の面を無視するも、

心理に反するように思います。

​(芳賀幸四郎著 『新版一行物』参照)

アンカー 2

百花春至 爲誰開
ひゃっかはるにいたりて たがためにひらく

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『碧巌録』第五則「雪峰尽大地」の公案の頌にある言葉です。
寒風吹きすさぶ冬の時節は、見渡す限り枯野原でも、

ひとたび春風が吹けば、何処からともなく次から次へと青い芽を出し、

たちまち緑をつけて、一斉に花を咲かせます。

梅、桃、桜、牡丹、五月、つつじ等が、まさに百花繚乱と咲き乱れます。

花の便りに浮かれ出て酒宴を設け、放歌乱舞の乱痴気騒ぎの

「花見」だけでは花に申し訳ありません。

花は一体、誰の為に咲くのでしょうか。誰の為でもありません。

何の為でもありません。そこにはそういったはからいは微塵みもありません。自分の生命の赴くままに自分の全生命を無心に発揮して、

天地一杯に「ただ、ただ」咲いているのです。
 ただ咲いて、私達に生き方を教え、勇気づけ、慰め、

そして楽しませてくれます。

しかもその功を少しも誇る事もありません。

なんとすばらしい事ではないでしょうか。

百花の姿が私達に大切な事を教えてけれているのではないでしょうか。

 

アンカー 1

諸悪莫作  衆善奉行
しょあくまくさ  しゅうぜんぶぎょう

『諸悪莫作 衆善奉行』(七仏通戒の偈) 

一休宗純禅師の書を目にしたことがあるかと存じます。

『どのような悪いこともしてはならない。

できる限りのよいことをするように心掛けよ』の意です。

白楽天の『仏法とは何か』の問いに応じた窠禅師(ちょうかぜんじ)の

答えとしても知られ、これに感じ入った白楽天が禅師の弟子となって

禪に励んだと伝えられています。

仏道というものはこのように、言うは易しくして、

実践することの難しいものですが、

それを実践しなかったらそれこそ何の意味もない話です。

『悪いことはしない』

『できる限り善いことをする』

一瞬でも、ひとときでもお釈迦様の教えを実践することが

出来たとすれば、少しだけお釈迦様に近づき、

生きることが出来るのではないでしょうか。

 

禅語2

耕雲種月

こううんしゅげつ

『耕雲種月(こううんしゅげつ)』という禅の言葉があります。

『雲を耕す』といっても何のことか、又耕しても実りがあるものかどうか。

『月に種をまく』といっても、芽が出るわけがありません。

現実的でなく、このようなことは実践できません。

この語は、伸びやかな禅の境地を示す。

高い理想を掲げ、出来そうもない事でも出来ると

信じて着実に努力する意だそうです。

私たちは何をするにも、合理的か、

功利主義に陥り過ぎてはいないでしょうか。

無駄なように思われることも、黙々と、自己の希望、

目標、人生の生き甲斐等に向かって生き抜いていくことが、

いずれ芽を出してくるのではないでしょうか。

禅語3

行雲流水

こううんりゅうすい

『行雲流水』一雲は悠然として浮かび、しかもとどまることなく、

水はまた絶えることなく、さらさらとして流れて、

また一処にとどまることがない。

この無心にして無碍自在のありようが禅の修行にもあい通じるとされ、

禅の修行僧を「雲水(うんすい)」と云うのもこの語からきている。

世の無常を表した語でもあり、我々の人生にも通じる言葉でもある。

空を漂い行く雲、とどまることなく流れる水は一時も同じ状態ではない。

雲にはやさしい風ばかりではない。

吹きちぎり吹き飛ばす風もある。

水の流れにも瀬があり曲がりくねる淵があり一様な流ればかりではない。

長い人生もまた然りである。

人生、順風満帆ばかりなんてありえない。

どんなに障害があり、喜怒哀楽様々な出来事の連続の中にあっても、

常にその心はその一処にとどまらず、執着せず、

雲の如く無心にして淡々と、さわやかに生きるところに

この「行雲流水」の語が生きる。       

 (朝日カルチャー「禅教室」参照)

 

禅語4

萬物生光輝

ばんぶつこうきをしょうず

『萬物生光輝』この世のすべてのものは自ら光り輝いている。

それは一夜のうちに醒めてしまうような錯覚の類ではない。

しかも、「すべてのもの」とは自分にとってプラスなものや

都合の良いものだけではない。

自分にとってマイナスなもの都合の悪いものも含んでいる。

禅的な悟りの境地に立ってみれば確かに

それは正しいことがわかるだろう。

身近に接しているものや事柄はもちろんのこと、

この宇宙のすべてのものが光り輝いている。

禅語5

杓底一残水 汲流千億人

しゃくていのいちざんすい ながれをくむせんおくにん

『杓底一残水 汲流千億人』

(しゃくていのいちざんすい ながれをくむせんおくにん)
禅の大本山永平寺開山道元禅師の日常の心構えを、

後の熊澤泰禅禅師が「偈」に詠まれたものです。

道元禅師は、谷川の水を洗面等に使われましたが、

柄杓に汲んだ水の半分を必ず流れに返されました。

「この水は下流(後生)の人々も使う大切な生命の水です。

私ひとりが贅沢に使うわけにはまいりません。

皆が共に尊び合い、使い切らない豊かな仏心が養われますように…」と

祈り、返されたのです。

水は万物の根源、根源を絶やさない《省エネルギー》の発想です。

それはまた根源を活かす仏の御心です。
臨黄ネット「省エネと仏心」参照

禅語6

随処作主 立処皆真

ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり

『随処作主 立処皆真』

(随処に主と作れば 立処皆真なり)
臨済義玄禅師の言葉です。

周りに引き摺り回されることなく、自分が在る場所で、精一杯自己投入するなら、

真実の命にめぐり合い、「随処の主」となれる。「随処の主と作る」とは、自由に勝手なことをしなさいということではありません。自分に与えられた場所で、選んだ道で、環境に適応して、責任を持って積極的に生きることによって、必ず道が開けて正しい成果が得られるという意と理解しています。すべてが自己だと思い、そこに愛情をもっていくならば、間違ったことなどできないと、臨済禅師は言われているのです。

サッカー日本代表の長谷部誠選手(現在はアイントラハト・フランクフルト所属)が、2012年ヴォルスフスブルク残留の心境をこの言葉で表現していました。

​「いつどこにいても、どんな立場でも何ものにも囚われず、常に主体を持って一生懸命行動すれば、もうそこには真実がある」と。

禅語7

春色無高下

​しゅんしょくこうげなし

『春色無高下 花枝自短長』

(春色高下無く、花枝自ずから短長) 

春になりました。

寒い冬が終わって春の暖かい日ざしが戻ってきました。

あちこちに梅、桜、桃、いろいろな花が咲いています。

この句はその春景色を叙じょしたものです。
 うららかな春の日ざしは山にも川にも、野にも町にも、

貧者の茅屋ぼうおくにも富者の金殿(きんでん)にも、

一様に降りそそぎ、少しも高下、厚薄こうはくはありません。

まったく一様にして平等です。
 しかし、よく見れば、花といっても梅の花もあれば、

桜の花もあり、桃の花もあります。

同じ梅といっても長い枝もあり、短い枝もある。

大きく咲いた花もあれば、咲く前に散っていく花もあります。

差別は歴然としています。
 「春色高下無く、花枝自ずから短長」。

仏教の説く平等即差別、差別即平等の根本思想をさしています。

臨黄ネットより

禅語8

清流無間断

​せいりゅうかんだんなし

『清流無間断 碧樹不曾凋』

(『嘉泰普灯録』清流間断無く、碧樹曾て凋まず) 

​清らかな水は、絶え間なく流れ行く。

青々とした木は一度も葉を枯らしたことがない。

精神修行の大切さを語っています。

たまり水では、澱んでしまう。

途切れることのない努力が必要という意です。

(有馬頼底『茶席の禅語大辞典』より)

禅語9

竹影掃階塵不動  月穿潭底水無痕

ちくえいかいをはらってちりどうぜず、つきはたんていをうがってみずにあとなし

―竹影堦を掃って塵動ぜず、月は潭底を穿って水に痕無し―(『密庵咸傑語録』)
深夜、月が皓々と輝いている。

密庵和尚は、池の畔でそれを眺めている。

すこし微風が吹いているようだ。

月の光でできた笹竹の影が、風に揺られて欄干は払うが、

欄干の塵は微動だにしない。月の影が清らかに澄んだ池に、

くっきりと姿を映している。しかし池の水面に月の痕は残っていない。
 この詩は、自然が示す動と静の素晴らしい調和を詠っているのである。

自然には無心にそれがなされている。

しかし人間は残念ながら、

自然のように動と静の二面を調和させて生きることが、なかなかできない。
 日常生活においてわれわれは、バタバタと忙しく走り回るばかり、

とうぜん心にも落ち着きがない。

こうして自分さえ見失ったままで一日を終える。

反対に雨でも降るような日には、何もすることがないといって、

いたずらに時を過ごしてしまう。
 大切なことは「動中の静」であり、「静中の動」である。

忙しく手足を動かして働いているときでも、心は不動でなければならない。

(臨黄ネット参照)

禅語10

​六根清浄

ろっこんせいじょう

『六根清浄』

人の生まれつきの性、持ち前を根性といいます。

人の感覚を起こさせる器官は、眼・耳・鼻・舌・身です。

これらを五感(五根)といいます。

これらの器官から得られる情報により、色々な思いが生まれます。

この思い(意)を五根に足して六根と呼びます。

そして五根それぞれが起こすさまざまの欲望を、

断ち切って清らかな心(意)を得たい、と願う言葉が六根清浄です。

山に入り修行する人達は、日常生活で汚れた六根を、

清らかな六根に近づけるため、六根清浄の言葉を繰り返し唱えながら登ります。

六根は般若心経にも出てきます。

是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 

無色声香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明 

亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 云々 以下略

禅語11

​秋沈萬水家々月

あきはばんすいにしずむかかのつき

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「処々」も「家々」も、ところどころではなく、「至るところ」の意です。

寒い冬が終わり、春ともなれば、貧富大小の別なく、

公平無私にうららかな春光がふりそそぎ、「千林」、

すなわち至るところで芽を出し、花を咲かせます。

同じように秋にもなれば明月が皓々と輝き、「万水」、

すなわち洋々と拡がる海洋にも、滔々(とうとう)と流れる大河にも、

満々とたたえる湖水にも、また小さな蹲(つくばい)の水にも月影を写し出します。そこに何人の取捨選択の心もありません。皆な平等にその姿を映じます。

大自然の働きに喩たとえて、

仏の慈悲がいかに公平無私にして広大無辺であるかを示した句です。

仏の慈悲とは、私たちの個々の思いやりの心です。

私たちはえてして、老若、男女、美醜、賢愚、貧富、

大小等の違いによって差別しがちです。

『春の陽光のように、秋の美しい月のように千差万別の区別を越えて、

誰にでも同じように…』と日々思い遺りをもって行動したいものです。

​(臨黄ネット参照)

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