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文化財

弘福寺大雄寶殿

 寺院の本堂にあたる建物で、木造本瓦葺入母屋造で、全体規模は正面8間、奥行き13間です。二層構造からなる堂(外陣)と本尊などを祀る後堂(内陣)から構成されています。関東大震災後に、第33代日向義角が檀家の協力を得て建立しました。棟梁は和田政吉です。細かい修繕以外大規模な改築は行われておらず、建築当初の姿が良好に留められており、軸部や組物には禅宗様の形式が用いられています。堂前の月台・聯額、礎盤、円窓には黄檗様の踏襲がみられ、軸部や柱間装置の形式などは萬福寺大雄寶殿(京都府)に近似しています。これに対し、三ツ斗組の肘木は、側面木口と下端を結ぶ繰り上げ曲面が殆どなく、黄檗建築によく見られる湾曲形垂木を用いた黄檗天井もありません。本建築で特徴的なことは礼堂内の軸組で、四天柱以外の柱を取り払い、広々とした内部空間を確保しています。また、須弥壇と来迎壁を後堂に配したことも、本建築の特徴ある構造・空間構成に関連しているとみられます。弘福寺大雄寶殿は黄檗建築の特徴を有しながらも、堂内での儀礼の利便性を考慮し、構造・空間構成の工夫を凝らした近代寺院建築ということができます。

西暦年(世紀):1933年

元号年(時代):昭和8年

登録・指定:墨田区登録文化財

種別:有形文化財(建造物)

所蔵者:宗教法人 弘福寺

 

銅製梵鐘

西暦年(世紀):1688年6月

元号年(時代):貞享5年6月

登録・指定:墨田区登録文化財

種別:有形文化財(工芸品)

所蔵者:宗教法人 弘福寺

 墨田区で確認されている最古の梵鐘で、貞享5年(1688)6月に鋳造されました。鐘楼は安政大地震で倒壊後、昭和8年(1933)5月に再建されたものです。撞座(つきざ)は八葉の蓮華文に8つの蓮実が陽鋳されます。乳は四区それぞれに5段5列、計100個を配していますが、これは江戸時代の作例では108個に次いで2番目に多いものです。下帯には唐草文様が陽鋳されています。竜頭の保存状態は良好で、江戸時代らしい作風が現れています。銘文は浅い彫りで、池の間全面と縦帯全てに認められますが、判読が困難で、特に池の間上部の磨滅は著しい状態です。銘文の内容は、黄檗宗5世高泉性潡(しょうとん)の撰による弘福寺の縁起と三河掛川藩(のち越後与板藩)井伊氏の寄進である事などが記された「牛頭山弘福禅寺大鐘銘並序」、般若心経・尊勝陀羅尼経・大悲心陀羅尼などの経文です。
 この梵鐘は江戸時代の地誌『江戸名所図会』、『新編武蔵風土記稿』などにも登場し、人々によく知られていたと考えられます。

文化財:梵鐘

木造鐡牛禅師倚像 

附蓮華形木坂貼付銅鋳三十五尊 ※非公開
 

西暦年(世紀):1692年~1697年

元号年(時代):元禄5年~元禄10年

登録・指定:墨田区定文化財

種別:有形文化財(彫刻)

所蔵者:宗教法人 弘福寺

 像容は、木造寄木造、全体が胡粉地で彩色が施され、玉眼が嵌(は)め込まれています。また僧衣には龍文と雲文を盛り上げ彩色し、袈裟には雲文が描かれ、黄檗様彫刻の特徴といえる濃厚で生々しい表現を示しながらも、衣文は波打つことなく穏やかで、和風化された例といえます。木寄せも熟達した技術が示され、内部全面には布貼り朱漆塗が施されています。頭部内には、表面に銅造の小仏を35躯取り付けた蓮華形木板が納入され、各仏の下には尊名、木板両端に鐵牛筆の墨書が認められます。また裏面には、制作者と考えられる「祥□元慶禅人刻」の墨書が確認されます。弘福寺を開いた鐵牛道機は、江戸時代初期の黄檗宗の高僧として知られ、相模小田原藩主稲葉正則ら大名の帰依も篤かったといわれます。

池田冠山墓

 

西暦年(世紀):1833年12月

元号年(時代):天保4年12月

登録・指定:墨田区登録文化財

種別:史跡

 池田冠山は明和4年(1767)、旗本池田半蔵政勝の第二子として江戸で生まれました。名を定常といい、安永2年(1773)、因幡若桜藩主池田大隅守定得の養子となり家督を継ぎました。学問・諸芸に通じ、毛利高標・市橋長昭と併せて「柳間詰の文学三侯」(寛政の文学三侯)と称されました。著書は210数巻に上り、代表的なものに『浅草寺誌』があります。天保4年(1833)7月に没し、六男定保により墓碑が建てられました。
墓は台座の上に亀の形をした亀趺が置かれ、その上に墓碑が建てられています。墓碑には、冠山と交流の深かった佐藤坦(一斎)が撰文、松崎慊堂の銘、市河米庵の書により、左右と裏の三面に冠山の事績が刻まれています。冠山の墓は、大名墓の当時の様子や彼の文学的事績を示す資料として貴重です。

 登録・指定:登録文化財

 種別:有形文化財(絵画)

 所蔵者:宗教法人 弘福寺

 

弘福寺所蔵絵画資料 ※非公開

 

 牛頭山弘福寺は延宝2年(1674)に鐵牛道機を開山に迎え開かれた黄檗宗の寺院です。
本資料は開創以来寄せられた絵画で、現在57幅が伝わっています。これらは黄檗絵画を代表する喜多元規筆の開山開基像をはじめとして、黄檗二世木庵性滔、開創に関わった兆渓元明の作品や狩野派など、弘福寺創立期の人物や彼らに関係する絵師たちの作品が主体となり伝来してきたものです。内容は仏画、花鳥画、水墨画などから構成され、制作年代は中世末から江戸時代前期の作品が31幅、江戸時代後期の作品が15幅、明治以降の作品が11幅となっています。
とりわけ、喜多元規の作品が含まれていることは、近世黄檗寺院の特色を示しています。

弘福寺所蔵絵画資料

隅田川七福神めぐり

 

 

 登録・指定:墨田区登録文化財

 種別:無形民俗文化財

 保持団体:隅川七福会

 隅田川七福神は、文化年間(1804~18)年造園の向島百花園に集った文人達の発案とされています。百花園主の佐原鞠塢が所有していた福禄寿の陶像にちなみ、正月の楽しみごととして機知を働かせ、北から毘沙門天(多聞寺)、寿老神(白鬚神社)(そのものがご神体なので寿老人ではなく、寿老神)、福禄寿(向島百花園)、弁財天(長命寺)、布袋尊(弘福寺)、恵比寿・大国神(三囲神社)を七福神として結びつけたと伝わります。
 明治31年(1898)、向島の人々が榎本武揚ら著名人を巻き込み隅田川七福会を結成し、一巡り約4kmの現在みられる順路が整備されました。明治41年(1908)には、当時の政府要人が揮毫した七福神案内碑が建立され、今日に至るまで多くの参拝客が訪れています。なお七福神の各尊像は、現在正月元旦から七草までの間のみ開帳されています。

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