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弘福寺概要

 弘福寺は日本三禅宗の一つ黄檗宗に属する寺院であります。

京都府宇治市にあります黄檗山萬福寺の末寺で、

黄檗宗第二代住職木庵禅師の弟子鐵牛禅師が、葛飾郡須田村香盛島という僻村(へきそん)に

あった香積山弘福寺の堂宇(どうう)を延宝元年(1673)に村の有力者たちの計らいで、

黄檗宗の寺として葛西一族の城址に寺領を移すと共に、牛頭山弘福寺と改称されました。

山号の「牛頭(ごず)」とは、当時隣接していた

牛嶋神社の祭神須佐之男命(スサノオノミコト)の別称が牛頭天王で、

古くから地主神として祀られていたことによるとされています。

 開山は鐵牛禅師(1628~1700)、開基は稲葉美濃守正則公です。

鐵牛禅師は印旛沼や手賀沼の干拓事業指揮した事で有名な方で、

稲葉美濃守正則公は春日の局の孫であり徳川家光公の側近であった方です。

御本尊は松雲作の釈迦如来坐像であります。

鐘楼の梵鐘は井伊玉心院大禅尼喜捨(いいぎょくしんいんだいぜんにきしゃ)のものです。七堂伽藍(しちどうがらん)の整った寺でありましたが、

江戸時代の度重なる大火や関東大震災で焼失し、

現存の本堂等は、昭和8年(1933)に再建されたもので

本堂、山門、鐘楼などは、禅宗の中でも最も中国に近い宗派である

黄檗宗特有の唐風結構で、特に本堂の両翼にある円窓、堂前の月台、

処々柱に掛かる聯額(れんがく)等、他の寺院建築に余り例を見ない特異なものです。

 境内には、鳥取池田藩藩主 松平冠山公、徂徠学の嚆矢(とうや)、

儒家南宮大湫(なんぐう たいしゅう)、星学家桃東園(もも とうえん)、

並びに林東溟(はやし とうめい)等の墓があり、

芸文三昧に生涯を送った俳人建部寒葉齋綾足(たけべ かんようさい あやたり)の

碑等もあります。また、森鴎外は少年時代この地域で過ごしており、

津和野藩主の菩提寺の関係から、没後弘福寺に葬られています。

しかし、震災後の隅田公園造成のため、三鷹禅林寺へ改葬されました。

 風外禅師の自刻の父母の石像があり、「咳の爺婆尊」と称し、

風邪除けとして古来より信仰を集めております。

石像の向い側には同和尚の顕彰碑があります。

文化文政の頃より、隅田川七福神詣りの霊場の一つとしても知られ、

布袋尊を祀っております。

 
― 開山 鐡牛禅師 -

 

 鐡牛道機(てつぎゅう どうき、寛永5年7月26日(1628年8月25日)-元禄13年8月20日(1700年10月2日))は、江戸時代前期の黄檗宗の禅僧。号は自牧子。諡号は大慈普応国師。長門生まれ(石見とする異説もある)。

 因幡龍峯寺(鳥取県鳥取市)で修行後、長崎に滞在していた隠元隆琦に参禅して萬福寺創建に従事した。ついで隠元の高弟木庵性瑫に師事して鉄牛道機と名を改め、その法を嗣いだ。教禅一致の立場に立って教化につとめ、宇治黄檗山萬福寺の造営に尽くし、京都洛西葉室山浄住寺を中興、相模小田原藩主稲葉正則の招きで紹太寺、江戸弘福寺などの開山となる。鉄眼道光の「大蔵経」の開版に協力し、下総匝瑳郡の椿海の干拓などの社会事業にも力を入れた。

 その後、人々に乞われて椿海跡地近くに福聚寺(千葉県東庄町)を建てそこで没した。

 
― 開基 稲葉美濃守正則公 ―

 

 稲葉 正則(いなば まさのり)は、江戸時代の譜代大名、老中、大政参与。相模小田原藩第2代藩主。初代藩主稲葉正勝の次男で、母は山田重利の娘。稲葉正成と春日局の嫡孫。正成系稲葉家宗家3代。鐡牛道機を招いて小田原紹太寺、江戸弘福寺の開基となった。
  春日局の孫ということもあり幕閣として重用され、明暦3年(1657年)9月28日に老中となり、将軍の名代や代参を経て、翌万治元年7月12日から評定所へ出座、閏12月29日に月番と老中奉書加判の上意を受けて幕閣への参加を認められた。寛文3年(1663年)に1万石加増され、4代将軍徳川家綱の文治政治を担うことになる。
 元禄9年(1696年)、江戸で死去した。享年74。遺体は紹太寺に葬られた。

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― 勝海舟翁参禅の旧跡 ―

 

 幕末の元勲勝海舟(1823~1899)が江戸島田道場において剣道に励んでいた若いころ、師の勧めで當寺に通い、数年間大勢の雲水と共に参禅していた。後年、その剣禅一致の修業は幕末の世情波荒き時にあっても『春風面を払って去るの心地』を開く機縁になったと翁が自ら語られた記録『氷川清話』の中で述懐されている。
 當寺の記録は関東大震災の折消失しており、残念乍ら参禅録は残存せず『氷川清話』にてその様子を伺うのみである。

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